清瀧山谷性寺せいりゅうざん こくしょうじ は通称『光秀寺みつひででら』と呼ばれている。

本寺は鎌倉時代の創建になる真言宗の古刹こさつ(古い寺のこと)で、大覚寺派に属し、不動明王を本尊としている。

天正年間、明智光秀公八上城攻略のみぎり(際・時)、御本尊の不動明王をあつく尊宗し、将士はその加護を得たという。

天正十年(1582)六月十三日、光秀公、秀吉の軍と山崎に戦い敗れ、 坂本城に向う途中山科小栗栖やましなおぐりすに於いて土民に襲わる。

溝尾庄兵衛、公の介錯をなし、首を鞍覆くら おおいに包んで藪中の溝にかくし坂本に走る。 のち近臣、首を生前公の尊宗のあつかった本寺不動明王のそばにねんごろに葬る。

幕末の志士『栄』なる人、 公の怨念をしずめんが為、安政二年(1855)七月『光秀公首塚』の碑を建て供養す。

当山第二十世住職により、昭和四十八年(1973)八月本殿、客殿、庫裏、鐘楼の新築、 改築を完成し、 関係者一同列席のもとに『光秀公首塚』供養を盛大に行い公の遺徳を顕彰する。

本寺には未鑑定の秘仏数体が本尊の脇に安置されている。

鐘楼には高さ八十二」センチ、外に龍頭二十一・二センチ、直径六十五・二センチ、鐘身の厚さ六センチの梵鐘があった。 作銘には馬路村安孫子治郎右衛門藤原正則、享保三年(1718)三月二十一日と刻され、四天王、光明真言四周に鋳出し、その音色には千載の夢が宿されていた。 昭和十七年(1942)聖戦遂行の名の許に供出されたので、昭和四十八年新鋳のものがそれに代わることとなった。

庫裏の『しころ』の裾瓦すそがわら(いちばん下の瓦)には十六弁の菊の御紋が配されている。

また庭園には相輪、基礎は欠くが室町期宝筐印塔ほうきょういんとう一基が飾られ、 室町期の小型石仏が庶民の願いをききとどけながらひっそりとたたずんでいられる。

参道右側のみごとな茶園は京都栂尾高山寺とがのお こうざんじからその種を受けたと伝えられ、 参詣者には延命長寿の薬として一服が供されている。

客殿よりの眺めはまた絶佳である。右より左へ本目城(神尾山城)龍が峰城・藪掛山城・猪の倉城を指呼の間に望み、 風光絶佳を愛でつつ、山巒さんらんの気を吸っていると、いつとはなしに戦国武将、光秀公の心につながる。


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